「中野区役所からまた召集令状が来ました。どうしましょう」
1944年11月10日、日東化学工業八戸工場の食堂で昼食を済ませ、配給のたばこで一服していた工場診療所の医師・野口巌の元に、妻から電話が入った。
診療所に迎えられてわずか2カ月ほど。野口は37年には中国大陸、41年にはルソン島などを軍医として転戦していた。34歳となり八戸に腰を据えた今、3度目の召集令状を受けるとは、自身も妻も夢にも思っていなかった。
小笠原諸島・硫黄島にある混成第二旅団野戦病院。その病院長を拝命した。硫黄島から帰ってきたばかりだという下士官に話を聞くと、こう答えた。
「良い水が全然なく、食糧も十分にはもらえません。皆腹をすかせています。敵機の空襲が始まり、しばしば艦砲射撃もあります。本当にひどい所です」
終戦までに日本兵約2万2千人が戦死したといわれる激戦地・硫黄島。それが野口の配属先であった。
◇ ◆ ◇
八戸に移住する前、野口は東京に住んでいた。育ち盛りの子どもを抱える中、少ない配給に苦しみ、また空襲に遭うのも時間の問題だと考え、地方への疎開を希望していた。そんな時、八戸の日本砂鉄鋼業に勤めていた弟が「隣の会社(日東化学)が医者を探しているから、どうせ疎開するなら八戸へ来ませんか」と勧めてきた。
それをきっかけに44年9月1日、八戸工場に赴任することになり、一家で八戸市類家玄中寺下(現同市柏崎)へ移住した。診療所の施設はなかったので、周辺町村を探して大きな売家を一軒購入し、工場敷地に移した。医療機器は仙台市でそろえ、1年分の薬品類も用意。ようやく準備が整ったところで、3度目の召集を受けることになった。
1カ月後には3人目の子どもが生まれる予定で、妻は「お医者さんでも戦争に一度も行っていない人がたくさんいるのに、あなたにだけ3度も来るなんてあまりに不公平ではありませんか」と不服そうだった。
「今回は生還できないかもしれない」と野口は自身が戦死した後のことを家族に話したが、妻は考えたくない様子だった。これまでの出征では記念にとカメラを持参したが、今度は玉砕覚悟なので持たずに着替えなど少ない荷物だけ行李に詰め込み、家族に別れを告げた。
◇ ◆ ◇
同僚から、こんな話を聞いた。「私たちは千葉県の海岸に集結し、もし硫黄島に米軍が上陸すれば、漁船に分譲して硫黄島に逆上陸することになっている」。硫黄島に向かう自分への気休めの言葉かもしれないが、あまりに無謀。日本出発前、東京でB29による空襲も経験し、ますます戦争の先行きに不安を覚えた。
野口が硫黄島へ赴任したのは45年1月10日。米軍上陸は1カ月先に迫っていた。
※16日の(中)へ続く。野口巌による本紙連載「嗚呼!硫黄島」(1952年7月)、回想録「玉砕の硫黄島に生きた混成第二旅団野戦病院」(文芸社)などを元に、硫黄島の激戦をくぐり抜けた野口の足跡をたどります
「生還せよ 〝玉砕の島〟地下病院長の戦い」シリーズはこちら
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