⑯.炭釜への思い、かなえるために
1985(昭和60)年8月12日。20年ぶりの甲子園での試合当日は、日航ジャンボ機が御巣鷹に墜落した日でもある。毎年この日に流れるニュース映像を目にすると、複雑な思いとともに、当時の記憶がよみがえる。 85年の夏の甲子園を最後に、八戸高に体育教師として赴任していた上野弘昭にバトンを渡した。上野は元監督壬生晃太郎の教え子で、夏の県予選で八戸西高を2度決勝に導いた名将である。
⑰.弱小の個性派集団、するすると
「俺は俺のために野球をやる、お前たちはお前たちのために野球をやれ」。1994(平成6)年春、3度目の監督就任となった初のミーティングでそう言った。 捨てられた、と思った―。後に教師となり、八戸高硬式野球部長を務める宮重太一は当時を振り返る。 確かに乱暴な言葉であったと思う。炭釜宗充の事故を受け「スミハンを甲子園へ」という仲間たちの強い思いは、いまだかなえられておらず、彼ら自身の夏もまた、未完のまま時が過ぎていく。いつになるかは分からぬが、炭釜と彼らの夏を完結させねば、と思った。
⑱.快進撃、勝ちに不思議の勝ちあり
1994(平成6)年夏の青森県予選。弘前会場から青森会場へ移動する。チームが準々決勝に勝ち進んだためだが、予期せぬ快進撃に、野球部長の赤坂寿は四苦八苦することに。手持ちのお金が底を突いてしまったのだ。 また、青森市内に最初に移った宿では、夜遅くまで団体の宴会があり、急きょ宿を変更してもらったりもした。大変だったと思うが、嫌な顔一つせず、奔走していただいた。
⑲.10年越し、炭釜を約束の甲子園へ
1994(平成6)年のチームに対し、奇跡という言葉がよく使われる。そのたびに「物事は全て必然なのだ」と言っていた父の言葉がよみがえる。 では、その必然を生んだものは何だったのだろう。私に思いつくのはただ一つ、「野球が好きだ」との選手たちの情熱に尽きる。彼らは彼らのために、好きな野球をし続けただけなのだと。
⑳.震災年、忘れ難いドラマの数々
2011(平成23)年3月11日、東日本大震災が発生する。この年は八戸高硬式野球部にとっても、忘れ難い年となった。春の八戸地区大会「室岡杯大下旗」で19年ぶりの準優勝に。ただ、出場選手が2桁の背番号を背負う光星高に2―10で敗れての結果だった。そのわずか3週間後、春の県大会準々決勝で光星高と再度対戦。レギュラー陣をそろえた相手に5―2で勝ってしまったのだ。こちらは絶対的エース有谷光を故障で欠き、レフトで控え投手の山本晴貴が、下手から山なりの球を投げ続けての勝利であった。
㉑.被災地球児を招待、共助の夏合宿
2011(平成23)年3月の東日本大震災で大きな被害を受けた、岩手県陸前高田市の高田高硬式野球部をその年の8月初旬、合宿へ招待することになった。監督の佐々木明志は早大の後輩で、春の関西遠征時、甲子園見学の際に何度か会っていた。 1、2年生の新チームで公立校でもあるし、大した人数でもなかろうと思っていたが、50人近い大所帯。無謀だと忠告する方々もいたが、何とかするしかない。野球部長だった清川和幸の助力を得ながら、各方面へ協力を依頼した。
㉒.「恩送り」絆、恩人戦友との別れ
「われわれに何かを返そうと思う必要はありません。いつの日か、どなたかを手助けしてあげていただければ…」。2011(平成23)年8月、八戸に招待した岩手県立高田高硬式野球部の皆さんとの別れに、そう話した。 この言葉は、1965(昭和40)年、八戸高が夏の甲子園に出場した時の遊撃手佐々木政美からの受け売りである。後日、高田高監督の佐々木明志がそのことに触れ、「恩送り」としてスポーツ紙に大きく取り上げられた。