大下常吉、大下健一、壬生晃太郎―。数々の輝かしい栄光を残した八戸高校硬式野球部。そこには、聖地・甲子園を目指して情熱を燃やした多くの人物たちの運命の交わりがあった。元監督・品田郁夫が証言や資料を元にその歴史を振り返る。


大下常吉編
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①.「野球不毛の地」から名門早大へ
2024年の夏の甲子園青森県予選を最後に、通算37年間の八戸高校硬式野球部の監督生活を終えた。その間、見聞きし、あるいはお世話いただいた先人たちに敬意を表し、その足跡をたどってみたいと思う。 かつて東北は、自然環境の厳しさ故か「野球不毛の地」と呼ばれていた。プロ野球などまだない1918(大正7)年、早大野球部の門をたたいた東北人がいた。
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②.情熱と激動の早大監督時代
「人格はスポーツから」との精神野球を説く早大野球部長の安部磯雄と、その意を理解し、実践で肉付けを試み続けた監督の飛田穂州の強い意向で、大下常吉は早大野球部監督に就任する。1931(昭和6)年の事である。 野球に対する情熱、一心不乱に努力し続ける姿勢、周囲からの人望など、学生時代をよく知る両人からすれば「大下しかいない」と思われたのも至極当然だったのだろう。
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③.戦災で帰郷、八高を選抜4強導く
大下常吉の早大野球部監督就任3年目に事件は起こった。1933(昭和8)年の「りんご事件」である。 あふれんばかりの観衆が見守る早慶戦での出来事だった。判定に猛抗議し、それを覆した慶大のサードがいた。後にプロ野球の監督として、三原脩と覇権を争う事になる水原茂である。
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④.「室岡杯」「大下旗」功績を象徴
八戸高校が夏の甲子園に出場した1926(大正15)年、28(昭和3)年、30(同5)年、選抜に出た56(同31)年のいずれも大下常吉が関わっている。 早大野球部時代、その後の社会人チームに所属していた時でさえ、帰郷の度にグラウンドに出向き指導した。時には手紙で、さまざまな練習法やら戦術を書き送ったという。
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⑤.ノック姿華麗、球場土手にファン
八戸高が1928(昭和3)年、30(同5)年に甲子園に出場した時、立役者となったのは左のエース大下健一である。常吉の弟で、高校卒業後、早大に進み活躍する。常吉の早大野球部監督時代とも重なっている。 「すなだ(品田)ずのは、どれでえ!」。早大安部球場になまりの強い怒声で現れたのは、眼鏡の奥の眼光鋭い老人であった。
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⑥.エース中島を因縁の西鉄に託す
八戸高硬式野球部で20年間、監督と部長を務めた教諭の福田裕行が指導に悩み、病床の大下常吉に教えを請うた時のこと。どうしたら強くなれるのか、との問いに「親のない子を集めろ」と即答した、との話を聞いた。 おそらく、八戸高が1956(昭和31)年に選抜4強となった時のエース中島淳一への思いが常吉の念頭にあったのでは、と推察する。
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⑦.プロへ3人 黄金期築いた名将
大正、昭和と八戸高硬式野球部の黄金時代を築き、中島淳一(西鉄)、福島孟男(近鉄)、宮崎元忠(大洋)の教え子3人をプロ野球に送りだした名将大下常吉。1961(昭和36)年を最後にユニホームを脱いだ。 引退後も時折、球場に姿を見せ、監督、選手の指導に当たったが、72(同47)年1月14日、帰らぬ人となった。享年73歳。早大入学時からの母校への尽力は、実に半世紀に及ぶ。

壬生晃太郎編
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⑧.「おっかながった」誠実な監督
1961(昭和36)年を最後に八戸高硬式野球部監督を退いた大下常吉からバトンを受けたのは、壬生晃太郎である。彼は56(同31)年の選抜大会でベスト4になった時のメンバーで、常吉のまな弟子であった。 日大で野球を修め、八戸市庁に勤務しながらの監督生活となる。「おっかながった(怖かった)」。教え子の方々がそう口をそろえるほど、厳しい練習だったという。
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⑨.失明寸前、甲子園で最後の指揮
八戸高が4回目の夏の甲子園出場を決めた1965(昭和40)年。失明寸前の監督、壬生晃太郎を何とか連れて行けないかと部長の福田裕行は奔走する。 担当医は、眼科医の浅水逸郎と内科医の長谷川正夫である。両人とも野球好きであったことから、特例として外泊許可が下りる。
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⑩.聖地に女神、奇跡のシートノック
今回、八戸高校硬式野球部元監督、壬生晃太郎の取材で思いもよらないお話をうかがった。 1965(昭和40)年に出場した夏の甲子園でのシートノックを、視力を失いつつあったにも関わらず、本人が行ったというものだ。予選では一度もノックをせず、戦況を聞いて指示を出したとのことから、ノックなどできるはずがない、と皆思っていた。

第1期監督時代
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⑪.福田裕行の「野球道」、脈々と
私が八戸高に入学した1969(昭和44)年、硬式野球部監督は福田裕行。65年に壬生晃太郎体制の下、部長として夏の甲子園を経験した体育教師であり、大下常吉から指導を受けたOBでもある。 「品のあるチームをつくりなさい」。常吉からそうアドバイスを受けたという福田の自宅本棚には、高校野球の神と言われ、常吉の早大時代の師でもあった飛田穂州の著作が、ほとんど備えてあった。他にも、野球に関する歴史、戦術、心理学などさまざまな本があったのを記憶している。
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⑫.多くの縁に恵まれ母校を指揮
私の八戸高硬式野球部監督就任2年目の秋、部員は8人に減った。病気や故障を抱えた選手もいたため、冬の練習は5人に満たない日が多くあった。翌春、新入部員が10人を超え、廃部の危機を回避できた時には、心底ほっとした。 先輩方からは多大な支援をいただいた。何とか母校を強くしたいとの思いが強かったのだろう。当時、スポーツ用具販売店社長だった石橋政太郎が資金を出し、大下常吉の弟健一を臨時コーチとして3年間招くことになった。

第2期監督時代
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⑬.初の関西遠征後、不慮の事故
1983(昭和58)年8月、八戸高硬式野球部監督に再登板した。早大OB会である八戸稲門会の当時の会長金入忠清ら先輩諸氏が、私を甲子園に送るためには何が必要か、と話し合ってくれた。 その中で、やはり強豪校に触れることが第一である、との意見が出て、関西遠征が提案された。早速、稲門会で寄付を集めようという流れになった。ついては、稲門会で動く前に野球部OB会の許可を得ようと大先輩方の前へ。
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⑭.「スミハンを甲子園に」選手結束
1985(昭和60)年6月の練習中、選手同士がぶつかった事故当時、「土手クラブ」会長の長谷川内科医院長、長谷川正夫がたまたま八高球場にいた。動けなくなった炭釜宗充と会話を交わして、すぐに救急車を手配。長谷川自身が同乗し、病院へ向かった。 炭釜は、この事故の瞬間を自身の著書『スミハン日記』で次のように書いている。
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⑮.「勝つんだ」奮起、執念、涙のV
1985(昭和60)年7月、練習中の事故でけがをした炭釜宗充を八戸市内の病院に残したまま、甲子園を懸けた夏の青森県予選が始まった。選手たちの「勝ちたい」という欲求は、勝ち進むにつれ「勝つんだ」という強い意志に変わっていく。 準決勝の大湊高戦。同点で迎えた七回1死二、三塁の場面で、打席に立ったのは左翼手堀合秀治。前年秋の大湊高との練習試合で、左腕の好投手から3安打を放っていたことから、思い切って5番に起用した。

第3期監督時代
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⑯.炭釜への思い、かなえるために
1985(昭和60)年8月12日。20年ぶりの甲子園での試合当日は、日航ジャンボ機が御巣鷹に墜落した日でもある。毎年この日に流れるニュース映像を目にすると、複雑な思いとともに、当時の記憶がよみがえる。 85年の夏の甲子園を最後に、八戸高に体育教師として赴任していた上野弘昭にバトンを渡した。上野は元監督壬生晃太郎の教え子で、夏の県予選で八戸西高を2度決勝に導いた名将である。
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⑰.弱小の個性派集団、するすると
「俺は俺のために野球をやる、お前たちはお前たちのために野球をやれ」。1994(平成6)年春、3度目の監督就任となった初のミーティングでそう言った。 捨てられた、と思った―。後に教師となり、八戸高硬式野球部長を務める宮重太一は当時を振り返る。 確かに乱暴な言葉であったと思う。炭釜宗充の事故を受け「スミハンを甲子園へ」という仲間たちの強い思いは、いまだかなえられておらず、彼ら自身の夏もまた、未完のまま時が過ぎていく。いつになるかは分からぬが、炭釜と彼らの夏を完結させねば、と思った。
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⑱.快進撃、勝ちに不思議の勝ちあり
1994(平成6)年夏の青森県予選。弘前会場から青森会場へ移動する。チームが準々決勝に勝ち進んだためだが、予期せぬ快進撃に、野球部長の赤坂寿は四苦八苦することに。手持ちのお金が底を突いてしまったのだ。 また、青森市内に最初に移った宿では、夜遅くまで団体の宴会があり、急きょ宿を変更してもらったりもした。大変だったと思うが、嫌な顔一つせず、奔走していただいた。
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⑲.10年越し、炭釜を約束の甲子園へ
1994(平成6)年のチームに対し、奇跡という言葉がよく使われる。そのたびに「物事は全て必然なのだ」と言っていた父の言葉がよみがえる。 では、その必然を生んだものは何だったのだろう。私に思いつくのはただ一つ、「野球が好きだ」との選手たちの情熱に尽きる。彼らは彼らのために、好きな野球をし続けただけなのだと。
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⑳.震災年、忘れ難いドラマの数々
2011(平成23)年3月11日、東日本大震災が発生する。この年は八戸高硬式野球部にとっても、忘れ難い年となった。春の八戸地区大会「室岡杯大下旗」で19年ぶりの準優勝に。ただ、出場選手が2桁の背番号を背負う光星高に2―10で敗れての結果だった。そのわずか3週間後、春の県大会準々決勝で光星高と再度対戦。レギュラー陣をそろえた相手に5―2で勝ってしまったのだ。こちらは絶対的エース有谷光を故障で欠き、レフトで控え投手の山本晴貴が、下手から山なりの球を投げ続けての勝利であった。
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㉑.被災地球児を招待、共助の夏合宿
2011(平成23)年3月の東日本大震災で大きな被害を受けた、岩手県陸前高田市の高田高硬式野球部をその年の8月初旬、合宿へ招待することになった。監督の佐々木明志は早大の後輩で、春の関西遠征時、甲子園見学の際に何度か会っていた。 1、2年生の新チームで公立校でもあるし、大した人数でもなかろうと思っていたが、50人近い大所帯。無謀だと忠告する方々もいたが、何とかするしかない。野球部長だった清川和幸の助力を得ながら、各方面へ協力を依頼した。
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㉒.「恩送り」絆、恩人戦友との別れ
「われわれに何かを返そうと思う必要はありません。いつの日か、どなたかを手助けしてあげていただければ…」。2011(平成23)年8月、八戸に招待した岩手県立高田高硬式野球部の皆さんとの別れに、そう話した。 この言葉は、1965(昭和40)年、八戸高が夏の甲子園に出場した時の遊撃手佐々木政美からの受け売りである。後日、高田高監督の佐々木明志がそのことに触れ、「恩送り」としてスポーツ紙に大きく取り上げられた。

早大時代
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㉓.曲折経て入部 試練の4年間
私が早大野球部に入部したのは1973(昭和48)年である。一浪後、第一文学部に入学した当初は、野球を続ける気持ちは全くなかった。幾度か神宮球場へ通う中で、もう一度野球がしたいとの欲求が強くなり、門をたたいた。 対応したマネジャーから言われたのは、一般入学生の入部は許可しておらず、しかも文学部の部員は一人もいない。その上、中途入部など前代未聞であるとのこと。一応監督に確認するが、無理であろうとも言われてしまう。
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㉔.「品田、前へ出ろ」驚きの展開
早大野球部時代の夏合宿は軽井沢で行った。年に一度だけ使うグラウンドに、先発隊が乗り込んで整備をした。 新たに土を入れ、掘り起こして混ぜ、ローラーを引く。高校時代、春先に行っていた手順と何ら変わらなかった。おそらく大下常吉以来、八戸高野球部に伝えられてきたものは、これだったのだと知った。

教え子エピソード
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㉕.大会前の引退試合 輝く3年生
夏の甲子園予選で敗退したその日から、新チームの始動となる。秋、春そしてまた夏と、三つの大会を目指し、全員同じ練習量をこなしていく。ベンチ入りの人数は20人に限られているため、それを超える部員がいる場合、メンバー選定には毎回頭を悩ますことになる。 夏の青森大会直前、本試合に出られないかもしれない3年生のために、特別に試合を組んできた。もちろん相手チームも納得の上である。レギュラー陣が裏方に徹し、応援団にも声をかける。本番さながらの応援の中、普段見られぬプレーをするなど、それぞれが輝く機会となっている。
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㉖.未知の力と無限の可能性に敬服
大人が思う以上に子どもたちは、逆境に立ち向かう強さや、現実を受け入れるしなやかさを持っている。それぞれの事情を抱えながらも野球に打ち込む姿には、ただ敬服するしかない時もあった。 父親が急逝し、高3で喪主を務めることになった大橋毅(八戸高1997年度卒)。葬儀も済まぬ中、地区代表決定戦が行われた。「毅は来られないと思います」。中学校から一緒で、大橋家の事情を知るマネジャー高谷多恵子はそう言った。私もそう思っていた。
定期戦と交流会
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㉗.同世代とかけがえのない時間
八戸高硬式野球部は岩手県の福岡高、盛岡一高と定期戦を行っている。両校ともに、1904(明治37)年に最初の試合が組まれたとの記録が残る。 戦争で中断を余儀なくされるも、福岡高とは47(昭和22)年に復活戦が始まった。先輩方の話だと、負けたチームは歩いて学校まで帰ったとか。
指導者として
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㉘.「甲子園は目標。目的ではない」
野球が下手な子を、少しばかりうまくする自信はある。だが上手な子を、より上手にする自信はあまりない。 従って、上手な子が辞めたいと申し出た際は引き留めず、下手な子の場合には「もう少し上手になってから辞めないか?」と持ちかけてきた。成功体験の少ない彼らに、自信を持ってほしいからだ。
歴代監督の言葉
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㉙.「勝つな、負けるな」奥深い真理
1893(明治26)年、青森県立尋常中学八戸分校が開校した。2年後に県第二尋常中学校として独立。その翌年、後に東大教授となった教諭、斉藤清太郎が革ボールとバットを持ち込み、指導した―。 これが八戸高硬式野球部の起源といわれる。それから数えると、既に129年の歴史がある。
エピローグ
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㉚.「参加するからには頂点を」
私の知る限り、6人の教え子が既に鬼籍にある。連絡をいただいた3人の危篤に立ち会った。共有した時間を思い浮かべながらも、かける言葉がなかった。 「監督って何?」。今も答えは出ない。しかし、野球を通しての付き合いは、本人にも、その家族にも想像以上の密な時間だったのだろうと思う。そのことを念頭に置いて発言、行動すべきだったと悔やまれてならない。

【参考文献】

  • 早稲田大学野球部百年史
  • 八中 八高野球部史
  • 熱球の碑(類家修著)
  • 野球一徹・回想の大下常吉(峰正太郎著)
  • ああ大下家の人々(大下由宮子著)
  • きたおうう人物伝(デーリー東北新聞社)
  • 大氣輝耀(村次郎著)

【筆者略歴】

  • 品田郁夫 1953年八戸市生まれ。八戸高、早大の硬式野球部で主に捕手として活躍。78年、八戸高硬式野球部監督に就任し、85年と94年に夏の甲子園に導く。通算37年間母校を率い、2024年夏の県大会を最後に退任した。
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