Free天鍾(6月26日)

「八戸に在(あ)りては9尺2間に足らざる小理髪店にしても6個の電燈(でんとう)を有せる…」(『八戸市史』)。青森なら中流以上の家でなければ据え付けられなかった電灯が、八戸では小さな理髪店に6つも点(つ)いていた▼大正初めの照明事情だ。青森県内で放電を利用したアーク灯が点(とも)ったのは明治30年の青森が最初、次いで34年に弘前、八戸は遅れて44年の今日、家庭送電を開始した▼明治37年の日露戦争後、急激な産業の振興に伴い石炭が高騰。石炭火力には痛手となったが、後発の八戸は水力の採用を決め、酒舗河内(かわち)屋の当主、橋本八右衛門ら政財界の面々が八戸水力電気株式会社を発起した▼運転費が高い火力に対し、水力は設備投資が巨額で資本金は10万円(今の数億円)。橋本は土地を売って資金を工面し、意を決して是川の新井田川に発電機を設置した。事業初年の契約数は1361戸だった▼それが開業4年目で契約数は倍増。運転費用が安くて済む水力が幸いし、「一文商いの小商人」でも電灯を点せたとか。この頃には暗かった炭素線電球からタングステン電球に代わり、街全体が明るく活気づいた▼さらに産業用電力の供給を目的に第2、第3の発電所を増設。紡績や醸造、製材などの動力源を賄った。橋本らの電源開発に賭けた先見の明が、やがて訪れる大型企業の進出や産業都市建設の確かな“呼び水”として結実していくのだった。