父は十和田開拓の祖として知られる伝(つとう)で、息子は旧5千円札に肖像が使われた稲造。間に挟まれた十次郎(1820~1867年)の知名度はイマイチで、地味な存在だ。しかし、その業績は父や息子に勝るとも劣らない。没後150年を契機に、その足跡をたどってみたい。
(エコノミック・マンデー2018年1月号を再編集しました。データや登場人物の肩書きなどは当時のものです)
■父子三代にわたる悲願

「ここは世界の中心だ!」 明治維新まであと8年に迫った幕末の三本木(現十和田市)で、そう叫んだ男がいた。
その名は新渡戸十次郎―。激動の時代に盛岡藩の立て直しに奔走する一方、不毛の地・三本木原の開拓に従事。海外貿易を志す国際的な視野も有していた。しかし、最後はその才ゆえか非業な死を遂げることになる。
まずは十次郎が「世界の中心を叫ぶ」までの足跡をたどってみよう。
生まれは文政3(1820)年、岩手県花巻市。父は盛岡藩士の伝だった。18歳で江戸に上って兵学などを学び、22歳で小姓として藩主に仕える。その後は勘定奉行など要職を歴任し、藩のかじ取り役の一人となった。
一方、父の伝は安政2(1855)年、リストラされた藩士の救済と藩財政の再建を目的に、三本木原の開拓に着手。当時62歳。還暦を超えてからの新たな挑戦だった。
幕末の盛岡藩は凶作に加え、幕府に命じられた蝦夷地(北海道)の警備などで財政は「火の車」。十次郎は47歳で亡くなるまで、鉱山の生産増強や他藩との交易振興、砲台建設、そして三本木原の開拓と、藩の富国強兵に懸命に駆け回った。
父が始めた開拓に携わったのは安政4(1857)年、37歳の時。勘定奉行として江戸に上った伝の代わりに、開拓の責任者である「新田御用掛」に任じられた。
十次郎の事跡に詳しい八戸高専の本田敏雄名誉教授は「伝がお金を集めておおざっぱな図面を描き、十次郎が具体的な形にしていった」と、親子の役割分担を解説する。
これ以降、十次郎は三本木、盛岡、江戸、京都などを行ったり来たりしながら、中央での活動と両にらみで、伝とともに開拓を主導することになる。
三本木原の開拓がなぜ難しかったのか―。それは水の手を確保できなかったからだ。30メートルも低い場所を流れる近くの奥入瀬川からは引けず、高い場所の上流から新たな河川を造る必要があった。
天狗山と鞍出山を貫く二つの穴堰(トンネル)を開けるなど約4年の難工事の末、安政6(1859)年5月にようやく三本木原に人工河川「稲生川」を引くことができた。
十次郎のフロンティアスピリットは、そこで尽きない。翌年、全国から資金を募るため「三本木平開業之記」を発表し、事業の意義と今後の方向性を示している。その中で「三本木は、世界の、日本の、藩の中心だ!」と宣言したわけだ。
少し長いが、 稲生川が開通した翌年の万延元(1860)年に十次郎が伝、長男の七郎と連名で発表した「三本木平開業之記」を引用しよう。
…………………………………気候は、北緯40度ぎりぎりであるために、寒冷地であると言っても世界の五大陸の中帯の、真ん中で、春は温かく、夏は暖かく、秋は冷たく、冬は寒い。これは四季の中和にかなっている(季節がかたよらない)と言えるだろう。
(中略)
南方の人は寒冷な地だと恐れるが、長崎から北海道までが日本の地であり、その北緯30度から50度まである日本の地の真ん中であるのだから、あえて恐れるべきでもない。
当国(盛岡藩)は南北80里余り(約320キロ)ある中で、三本木は40里前後の場所にあるので、これまた国の真ん中である
このような事実をもって見れば、世界に対し日本に対し当藩に対して、適度に真ん中の地であり、気候も寒さ暑さが適度であるから、開発に盛んに力を尽くして土地の生産力を高めた時は、世界第一の、田畑が豊穣で、人や物が繁生する性質を持つ所だと言ってもいいのではない』
…………………………………
どうだろうか。資金集めのPRという点を差し引いても、その気宇壮大さに圧倒される。十次郎の真骨頂に迫る前に、時代を少しさかのぼって伝が三本木開発に至るまでの道をたどろう。
※(上)はフリー記事。(下)は夕刊で配信


