八戸市立大館中(堀合貴校長)で27日、俳優でタレントの赤井英和さんと、その妻で、同市出身、同校の卒業生でもある佳子さんが講演した。英和さんはプロボクサーから俳優に転身した経験を踏まえ、「夢は必ずかなう」と生徒たちにエールを送った。
【幼少期は優等生】

小学校の時は結構、優等生でありまして、学校では2年生から6年生まで毎年学級委員をやったり、児童会では会長をやったりとかしてまして、習い事もいっぱいやって、柔道教室、美術教室、英語教室、そろばん学校、学習塾と、勉強が好きな子どもやったんです。
優等生だったんですけれども、違う学区の小学校から地元の中学校に入学しました。中学に行ったら、友達が誰もいなかった。そこで考えたのは、どうしたら友達ができるかな、友達つくるにはけんかしかない、どつき合いしかないと。
当時は、けんかをして友情を育てるという漫画がいっぱいあった時期なんです。それまでは、どつき合いなんかしたことなかったんやけども、その時は、どつき合いするのが友達づくりの最初やというふうに思っていました。それでけんかしながら友達をつくって、いまだに中学の友達は宝物であるし、一生の友達というのが続いております。
【ボクシングと出会う】
そんな中学時代を過ごしまして、高校を受験する時に、大阪の浪速高校という私学の学校を受験しました。高校の受験が終わった日、近所の喫茶店に行ったら、浪速高校に進学している先輩がいらっしゃいまして、「先輩、今回浪速高校を受験しました」「おう、そうか。ほんなら明日、食堂の前に10時に来い」と言われました。まだ、合格したかもわからないし、公立に合格したら公立高校に行かなければいけないにも関わらず、先輩に言われて、翌日の10時に食堂の前に行ったら、そこがちょうどボクシング道場やったんです。結局、雑用係に呼ばれたということで、合格したかわからないにも関わらず、ずっと春休みに通いました。入学後もボクシング部にはずっと通っていたんですけども、1年生の夏休みにちょうど三重国体というのがありまして、先輩に「今度国体の予選あるから、お前出ろ」、「いや先輩、ボクシング全然教えてもらってませんけども」と言ったら先輩に「大丈夫や。どついたらええねん」と言われ、それで出たのが三重国体の予選でありました。フェザー級に3人出て、なんとか勝てて、国体の代表になれました。
2年生の時に、青森国体、「あすなろ国体」というのがありまして。対戦相手の選手は当時、高校2年連続チャンピオンであり、モスクワ五輪代表候補という名選手でした。それが大会前にわかって、「そいつに勝ったら今度は俺がモスクワ五輪の有力候補になるんや」と思って、プロのジムに通い、対策、練習をしてリングに上がりました。その時、会場にいる全員が相手選手が勝つと思っている中で、がんがんどつきまくって、なんとか判定で勝てました。
その時の試合のことがボクシングマガジンという専門誌に載ったことが、私にとってうれしくて、ありがたくて、それからボクシングにのめり込んでいきました。高校3年時にアジア選手権やインターハイで優勝し、モスクワ五輪の候補選手になりました。
【潰えた目標、そしてプロへ】

私の選んだジムというのは、当時、タクシーの運転手だった津田(博明)さんのジムでありまして、タクシーの運転手しながらだから、2日に1回しか練習を見てもらえないんですけれども、ずっと高校時代からお世話になっていたトレーナーの方だったんで、そこに入門することになりました。本当に環境としては恵まれてない、4畳半くらいの手作りのリングで、ロープやなしに縄でぐるりと囲んであるだけの、環境の悪い所でした。
ボクシングで勝ち続けるには、プロは特に、魅せるためにはKOしかないと。相手を倒してなんぼやということで、いつもいつも練習の時から相手を倒すことをイメージしながら、試合に出ていました。
デビューから14戦14勝、13KO勝ちで初の世界タイトルマッチに挑戦することになりました。試合場は私の母校である近畿大学の記念館であって、控室から会場を見たら、1万何千と入っている観客のどこ見ても、自分の知り合いであるとか、先生であるとか、近所のおっちゃん、後輩、友達、もういっぱい居てる中で、そこで既に「世界タイトルマッチをする」という私の夢はかなってしまったということでもあったわけです。もし「世界チャンピオンになるのが俺の夢や」と思っていたら、おそらく世界チャンピオンになっていたと思うんです。
初めての負けを経験して、次やったら絶対に勝てるという気持ちもありました。次の世界タイトル目指してやっている時に、過去に6人ほど日本の世界チャンピオンを育てたとされるエディ・タウンゼントさんから指導してもらうことになります。
エディさんは良い所を伸ばすことで、悪い所が隠れるという考え方でありますので、良い所を伸ばしてくれて、「OK、ナイスパンチ!ワンモアパンチ」言われたら、へとへと疲れててもパワーが出るような、そうやって気持ちをのしてくれるようなトレーナー、先生でありました。
2回目の世界タイトルマッチの前哨戦に出た時には、気持ちがのっていないということもあって、KO負けをし、そしてその試合で事故に遭いました。右側頭部硬膜下血腫、脳挫傷、深昏睡。頭と頭蓋骨の間に血の塊ができて、親も「諦めてくれ」と言われるくらいの重傷でもありました。今までアマチュアで56回、プロで21回試合をしてますけども、最後の試合だけは最初のゴング鳴ってから全く記憶にない。
退院後はボクシングをまたやる気まんまんであったんですけれども、退院の日に「もう君は二度とボクシングはできません」と言われました。15歳からボクシングを始めて、プロになって・・・、ずっと目指していたものがなくなった時には本当にもう、目の前が見えないくらいのショックでありました。
【きっかけは鶴瓶師匠】
今できることは何かなと思った時、学生時代から、プロになってからも、いろいろとお世話になった先生、先輩、いろんな人に「元気になりました、これからのことはまたこれから考えます」とあいさつに行くことかなと思いました。高校の先輩でもあり、応援してくれていた笑福亭鶴瓶師匠にあいさつに行った時、「お前の人生おもろいから本書いたらどうや」と言われ、私の人生の半世紀を書いた「どついたるねん」という本が出ました。そして、その本を読んでくださった阪本順治監督が家に来て、「この話はおもろい。この話を実際に赤井くんがやって、映画を撮ろう」言うてくださいました。
何もすることがない時期でもあったんで、よろしくお願いしますということで撮ったのが、1989年製作の「どついたるねん」という私のデビューの映画でした。その映画があったからこそ、今現在も俳優、役者として舞台に映画に、ドラマに出していただく現在が続いているということは思います。
1985年に最後の試合をやって、映画を撮るまでに4年のブランクがあった間、食ったり飲んだりしてたんで、当時70キロやった体重が85キロまでなってまして、「この体ではボクサーでカメラ回されへんからまず痩せろ」言われまして、1カ月後のポスター撮りの時には67キロまで体重を落としました。
ボクシングの減量の時は、140パウンド、63.5キロ、はかりの上に乗って、オッケーとなったら、夜の試合までは食うても飲んでも良かったんですけれども、撮影の減量というのは(体重を)ずっとキープしなければならないというのが非常にきつかったです。
普通の映画やったらカット割りというのがあって、短いシーンを撮っていくんですけれども、「どついたるねん」という映画は、(演技未経験で演技の再現性がないため)ワンシーンワンカットでした。台本のページにしたら8ページも10ページもあるシーンでもワンシーンで撮りました。膨大なセリフを覚えないかんということで、大変な仕事でありました。最高48回NGを出して、それはそれはスタッフも皆「おいまたか」というような状態の現場だったんですけれども、それがあって今があると思います。
【ピンチはチャンスやったんや】
今から考えたら、ピンチやったことは実は全部チャンスやったんやなと。生きるか死ぬかの大けがをしたことがきっかけで、鶴瓶師匠に勧められて本ができて、映画ができて。実はピンチというものがいつでもチャンスになるんやなということを感じました。皆さんにはきょう、夢はかなうぞということを持って帰ってもらいたい。いつもその夢をイメージして、まぶたの裏に自分の将来のこうなりたい、ああなりたいという姿を描く。そして、そのためには今何をすべきか、何をしたらいかんか、どうしたらええのか、というのはずっとイメージすることで、その夢はかなうんやぞということをわかってもらいたいと思います。

【佳子さんから後輩たちへ】
私(佳子)が大人になって知ったのは、仕事っていっぱいあるっていうことです。私たちは中学、高校くらいの時は半径3メートルくらい、友達と自分の家族くらいのことしか知らなかったし、親の職業とかスポーツ選手とか、見えている仕事しか知らなかった。
例えばこの間、番組で保護犬の預かりボランティアをしたんです。あの番組だって、保護団体の方、ドッグトレーナーの方、テレビ局のスタッフの方は30人いるんです。さらにスタジオに行くと、ヘアメークさん、衣装さん、持ち道具さん・・・。子どもの時には見えなかった仕事っていっぱいあるので。私たちは撮影の現場しか知らないですけど、それだけでも何十個もいろんな仕事があります。好きなことを見つけて、自分の好きなことをやり続けたらいいんじゃないかなと思います。自分が好きなことを仕事にできる力が皆さんにはあると思います。
そして、今隣に座っている大切な、一生の友達になるかもしれないお友達を大切にしてください。


