Free【連載・世界のJOMONへ】第1部 是川遺跡発掘100年(1)泉山兄弟

土器を触りながら発掘を振り返る泉山斐次郎=1963年10月

1920(大正9)年11月、三戸郡是川村中居(現八戸市是川)の畑で、1人の青年がリンゴの苗木を植える作業に汗を流していた。土にくわを入れるたびに、次々と出てくる焼き物のかけら。「リンゴにはありがたくない」と困惑したが、あまりの量と美しい模様に顔色が変わっていく。その日を境に青年は、その“かけら”たちに強く引かれていった。この青年が是川遺跡発掘の第一人者・当時32歳の泉山斐次郎(あやじろう)(1888~1982年)だ。

別邸から駆け付けた義兄の岩次郎(1876~1963年)=当時(44)=も掘り出された土器のかけらがずらりと並ぶ光景に驚いた。義父に代わり、日出(ひので)セメント(現八戸セメント)を経営していた岩次郎は、財力を生かして発掘に手を貸すと心を決める。泉山兄弟は20年、是川遺跡の一つである現在の中居遺跡の発掘に初めて乗り出した。 

6年後、多くの土器の出土が見込まれる遺跡南側の低湿地部分の発掘に取り掛かる。斐次郎は現場の指揮を担当。ノートには出土した土器を細かく記し、発掘の作業員として雇った地元住民についても、いつ誰が携わったのか詳細に記録した。約3年間で箆(へら)様木製品や木製腕輪など多くの遺物を発掘。それらは植物質遺物と呼ばれ、当時の大発見であった。

「発掘は大学などがメインだったこの時代に、民間人の泉山兄弟が成し遂げたのは大きな意義がある。私利私欲のためではなく、学術的な目的で掘っていたのは明白だ」と市埋蔵文化財センター是川縄文館の小久保拓也主幹は指摘する。

兄弟は、単に土器を集めていたのではない。この土器はいつ、何のために作られたのか―。所有する蔵に出土品を大切に保管し、訪ねてきた研究者には快く貸し出した。兄弟のことをよく知る八戸縄文保存協会の栗村知弘会長(86)は斐次郎の人柄を「誠実そのもの。温厚で真面目で素朴な方だった」と振り返る。

一方、研究者に貸し出した土器が約束通り返ってこないときには、強く返却を求めることも。土器への“愛着”は相当なものだった。

やがて価値が国外にも知れ渡り、他国から億単位の多額の代金で譲ってほしいと引き合いも。しかし、兄弟は「地元に残してこそ意味がある」と、決して首を縦に振らなかった。

斐次郎の孫信子さん(72)は「祖父は初孫の私をとてもかわいがってくれたけれど、形見として土器や勾玉(まがたま)を一つも残さなかった。あんなにたくさんあったのに」と笑う。

遺跡はやがて「是川石器時代遺跡」として史跡指定され、一部は国の重要文化財になった。61年、兄弟は自身が高齢になったことなどを踏まえ出土品を全て八戸市に寄贈する。「災害にも負けない立派な保存施設を」という兄弟の意志を継ぎ、市は2年後、是川考古館を完成させた。

同館が手狭になると75年には隣に市歴史民俗資料館を開館。斐次郎は既に90歳近かったが、名誉館長として同館に通い、来館者の対応に精を出した。78年、文化庁の文化行政功労者に選ばれた斐次郎は「発掘した遺物は市に寄贈するまでは譲りも売りもしなかった。これが認められたのかと思う」と語っている。

是川遺跡の生みの親となった泉山兄弟。腐心して集めたかけらたちは、今でも「泉山コレクション」として是川縄文館で大切に保管されている。

◇     ◇

是川遺跡発掘から100年。くしくも同遺跡は今、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産として世界文化遺産登録を目指している。昨年12月には、政府が国連教育科学文化機関(ユネスコ)への推薦を決定。現地調査を経て、早ければ2021年夏にも実現する見通しだ。縄文は世界の「JOMON」へと羽ばたくか。これまでの同遺跡群の調査、取り組みを振り返りながら、登録に懸ける人々の思いや課題などを追う。

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