Free【北奥羽の地名】斗賀(南部町)/アイヌ語で沼のほとり

北奥羽の地名
北奥羽の地名

「物語名川町の歴史」(金澤啓三郎著)によると、アイヌ語の「トーカ」が由来で、沼(トー)のほとり(カ)の意味を持つ。

 古い時代は大部分が湿地のような沼で、地震や山崩れなどによる地形変動や農業開拓により人家が増えたという。天文から天正初年ごろ(1530~70年代)に起こった三戸南部の内紛の際は、攻防の地であったことが「遠野南部家文書」で知られる。

 南部氏24代の晴政のとき、剣吉城主の北致愛は剣吉村と斗賀村を領有した。斗賀村は剣吉城近くまでの上平(上斗賀)から東圓寺西側の斗賀澤まであった。

 こんな言い伝えがある。上斗賀と下斗賀の両権現様が斗賀澤堰の石畳橋でけんかし、上斗賀の権現様は耳を取られ、下斗賀の権現様は顎をかじられたという。下斗賀の権現様が春祈とうで各戸を回る際に上斗賀から下斗賀に分家になっている家には祈とうせず、根強く最近までの習わしだった。

 藩政当初は盛岡藩に属し、1664年の八戸藩創設とともに藩領となった。

 
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