Free(2)「始まりの事故」 運動できず興味は芸術へ

父千葉寅一に抱えられ、妹則子と共に写真に納まるリハビリ中の一彦(左)=1938年ごろ、弘前市の親戚宅で(本人提供)

千葉一彦がバスにはねられたのは、5歳の時だ。

事故は1937年3月1日午後2時前、八戸駅(現本八戸駅)近くの坂道で起きた。千葉の記憶では、経緯はこうだ。

友達と4、5人で歩いていたところ、後方で駅を出発したバスの警笛が鳴り、皆が一斉に右へ逃げ出した。が、千葉少年だけが反対方向へ駆け出した。左側の路地が目に入ったからだ。

しかし、その千葉少年をバスが追いかける形となってしまい、背中にバンパーがぶち当たった。「友達たちと駄菓子屋にでも行こうとしていたのかな。バスも右に逃げた子どもたちをよけようとハンドルを反対に切ったようだが、その先に私がいた」

気付いた時には整骨院のベッドの上におり、医師からは「ちょっとした打撲だ。男なんだから元気を出せ」と言われて、湿布を貼っただけで帰された。当時、八戸市内で発行されていた新聞『奥南新報』の事故3日後の記事には、頭部や大腿(だいたい)部に4週間の治療を要する大けがとある。

ところが、数日たっても腫れはひどくなるばかりで、総合病院で調べてもらうと、左大腿骨が骨盤から脱臼しており、とてもすぐに完治する状況ではなかった。結局、その後、1年ほどを入院とリハビリに費やすことになった。

事故を起こしたバス運転手は責任を感じて仕事を辞めてしまい、毎日見舞いに来て、おもちゃなどをくれた。千葉少年の父寅一は「親にも責任がある。仕事を辞めることはない」として、運転手の職場復帰のため奔走したという。千葉は「当時、ちまたで美談とされたらしい。その後、職場に戻れたのかどうかは定かではないのだけど」と語る。

寅一は建築家で、弘前市、青森県に勤めた後、29年に誕生したばかりの八戸市に初代建築部長として赴任したという。市立病院や学校など多くの施設の設計を手掛けた人物だった。

事故から1年後、千葉は八戸尋常小(現八戸小)に入学するが、けがの後遺症で体育はほとんど休むことに。夏休みや冬休みの間は、一家で寅一の出身地である津軽地方で過ごすことが多かった。千葉のけがを、大鰐温泉や碇ケ関温泉で癒やすためであった。

6年生になってようやく弓道部へ入部し、校旗の旗手を務められるまでに回復したものの、「けがを卒業前まで引きずり、運動神経ゼロのか弱い小学生だった」と苦笑いする。

八十数年前、千葉一彦が事故に遭った本八戸駅前の坂道

一方で、千葉の目は絵画や書道、写真など芸術の分野へ向いていき、中学時代には美術部に入部した。

現在では考えられないが、カラー写真のなかった時代なので、結核療養所(現国立病院機構八戸病院)の所長から依頼を受け、発表資料作成のため、顕微鏡をのぞいて細菌の様子を描写するアルバイトをしたこともあったという。

また、中学生ながら写真愛好家団体・全日本写真連盟の会員となり、46年の公募展では、青函連絡船の写真で入選を果たした。

「美術の道に進むことになった原点は、駅前でバスとぶつかった事故。良くも悪くも、私の生涯にいろいろな痕跡を残した」。不運ではあったが、自身の進むべき方向へ導いた、運命的なものも感じている。

 
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