Free「稲木」犠牲者追悼、平和継続願う 元乗組員の杉浦さん(愛知)も参列/八戸・蕪嶋神社

玉串を奉納する海防艦「稲木」元乗組員の杉浦専治さん(中央)=9日、八戸市鮫町
玉串を奉納する海防艦「稲木」元乗組員の杉浦専治さん(中央)=9日、八戸市鮫町

太平洋戦争末期、八戸港で米軍機の攻撃を受けて沈没した旧日本海軍の海防艦「稲木」の戦没者追悼慰霊祭が9日、八戸市の蕪嶋神社で執り行われた。戦後78年となる今年は元乗組員の杉浦専治さん(100)=愛知県安城市=や、地元住民ら約50人が参列。犠牲となった乗組員29人のみ霊を弔い、平和の継続を願った。

 1945年8月9日早朝、同港に仮泊中だった稲木はグラマン戦闘機に急襲されて応戦したが、ロケット弾を集中的に浴びせられ「八戸の盾」となって撃沈。艦長以下29人が戦死した。

 同神社の境内で行われた慰霊祭では、参列者が慰霊碑の鐘が鳴る中、黙とう。続いて自衛隊OBらが鎮魂歌「稲木の唄」を奉唱し、参列者が玉串をささげた。

 同神社の野澤俊雄宮司が「物事の進みは早いが、慰霊祭は続けてみ霊を鎮め、平和の尊さを考えていかなければいけない」とあいさつした後、防波堤から海に献花した。

 当時22歳だった杉浦さんは、沈没前の稲木から海に飛び込み、漂流物に捕まっているところを助けられ、蕪島の防空壕(ごう)で一夜を明かしたという。戦闘機の弾によって左足にけがを負い、トラックで八戸赤十字病院に運ばれて手術を受け、半年ほど入院した。

 杉浦さんは「八戸はわしの第二の故郷みたいなもの」と当時を振り返り、「海軍でありながら、100歳までよう生きた。今まで生きているのは運がよかった」と語った。戦争については「あんなばかなことはやるもんじゃない」と語気を強めた。

 慰霊祭では、稲木の100分の1スケールの模型も奉納。製作を手がけた八戸南ロータリークラブの大橋央雅会長(38)は「模型を見て、平和のことを少しでも考える機会にしてほしい」と期待を込めた。

 
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