第1部「ハマの近代化」
1.港の光と陰
2025年5月29日
〈鮫の漁師ァ漁をするのが楽しくてなす。漁師どカッコ(小舟)ど浜ァ、いっつも一緒でございあんした〉 5月中旬、SG GROUP ホールはちのへ(八戸市公民館)の一室で、柾谷伸夫さん(76)が稽古に励んでいた。自身が脚本を手がけた一人芝居「海村」。1982年から演じ続けてきた作品だが、30、31日の上演を「これが最後」と心に決め、せりふと所作のさらいに余念がなかった。
2.不況対策
2025年5月30日
昭和初期、八戸のハマの盛況とは裏腹に、東北地方は相次ぐ苦境に見舞われていた。1929(昭和4)年の世界恐慌発生により、日本も深刻な経済不況に突入。当時の主要な輸出品だった生糸の相場が暴落し、農業の傍ら養蚕による生糸生産を主な収入源としていた農家は大打撃を受けた。 30年は豊作による米価下落、31年は一転して冷害による凶作で、東北各地の農村の疲弊は加速。満足に食事ができない児童の増加や、女子の身売りが社会問題化した。33年3月にはマグニチュード8.1規模の昭和三陸地震で沿岸部の漁村が壊滅的被害を受け、34年も深刻な凶作が農村の窮乏化に追い打ちをかけた。
3.海上輸送
2025年5月31日
八戸市の漁船団が、日本軍の占領下にあった石油生産地・東南アジアからの燃油輸送に携わっていた―という逸話は、あまり知られていない。 1941(昭和16)年12月に始まった太平洋戦争の序盤、日本軍は敵国である連合軍(米国、英国、オランダ)の植民地だった東南アジアの大部分を占領した。37年から続く日中戦争の拡大に反対する3国による石油の対日禁輸に対し、石油などの物資生産地である植民地を押さえる目的だった。
4.空襲の衝撃
2025年6月1日
八戸地域では1944(昭和19)年10月からの半年間、米軍の空襲や本土上陸に備えるための防御陣地造りが急ピッチで進められた。軍部は鮫、是川、館、上長苗代、南郷島守など約1400ヘクタールの丘陵地帯を防衛線とし、塹壕(敵から身を隠す空堀)掘りやトーチカ(コンクリート製陣地)造りに、多くの学生や児童生徒も厳寒期を挟んで酷使された。
5.戦中派の警鐘
2025年6月2日
「俺、字を書くのが苦手なんだよ」。今も八戸市鮫地区で漁を続ける小西國治さん(89)は、そう苦笑する。「ろくに学校へも行かず、おやじの漁をずっと手伝っていたからなあ」 当時、鮫地区の漁師の子どもたちが途中から学校へ行かず、家業に専念したことは、さほど珍しいことではなかった。だが、小西さんの小学校(当時は国民学校)入学は、太平洋戦争真っただ中の1942(昭和17)年。戦中、戦後の深刻な食糧難の時期に重なる。
第2部「村次郎の戦場」
1.夢の挫折
2025年8月11日
芥川賞作家の堀田善衛(1918~98年)は、軍国主義が色濃くなる昭和初期に青春時代を過ごした。その頃を活写した自伝的小説「若き日の詩人たちの肖像」(68年)は、当時交流のあった高名な文学者や、戦後に活躍した慶應大文学部仏文科の同窓生の姿を丹念につづっている。 そうした多士済々の中、とりわけ異彩を放つ学友が仮の名で登場する。
2.中国戦線
2025年8月13日
日米開戦から間もない1942(昭和17)年2月、村次郎(本名石田實)は陸軍の招集を受け、弘前第十六部隊重機関銃中隊に配属された。生来、病弱であることも影響し、甲種(現役兵)に次ぐ乙種(補充兵)での合格で、当初は「入隊してすぐに駆け足か何かの訓練で倒れてしまった」と、後に自ら回想している。
3.それぞれの終戦
2025年8月14日
中国戦線で日中・太平洋戦争の終結を知った1945(昭和20)年8月から、八戸に帰還した46年4月までの出来事に関し、村次郎(本名石田實)は生前、多くを語らなかった。「村 次郎の会」の仁科源一さん(74)=八戸市=は、村作品の覚書や、同行者とみられる関係者の手記を基に、その道程を追っている。
4.死者と共に
2025年8月15日
村次郎(本名石田實)は1946(昭和21)年4月に中国大陸から八戸市へ帰還して以降、翌月には作品を発表するなど、旺盛な創作活動を再開した。地元の文化人たちと親交を深め、同人グループを組織して書籍シリーズ刊行も計画。自身も詩集「忘魚の歌」「風の歌」を刊行した。
5.予 言
2025年8月16日
日中・太平洋戦争の終結から80年を迎えた今年は、戦争に対する反省や基本的人権の尊重、非核三原則といった、戦後の日本が積み重ねてきた教訓の土台を大きく揺るがしかねない言動が目立った。 5月には与党国会議員が、沖縄戦の慰霊碑「ひめゆりの塔」にある、女子生徒たちの悲劇を伝える展示内容を「ひどい」「歴史の書き換え」などと発言。抗議が殺到し、首相が陳謝する事態にまで至ったが、議員本人はいまだ自説を撤回していない。
第3部「もと子の時代」
1.急転回
2025年12月26日
1903(明治36)年に創刊された女性雑誌「家庭之友」は、後に改題した「婦人之友(現・婦人の友)」として現在も発行されている。夫の羽仁吉一(1880~1955)と共に同誌を創刊したのが、八戸市出身のジャーナリスト・羽仁もと子(旧姓・松岡、1873~1957)だ。
2.合理化思想
2025年12月27日
八戸市出身のジャーナリスト・羽仁もと子(1873~1957)の足跡は、多岐にわたっている。 女性の教育が軽視されていた時代に苦学を重ね、学校教員の職を経て1897年に報知新聞に入社、日本最初期の女性新聞記者として活躍した。1901年には同僚の羽仁吉一と結婚、退社し、夫妻で後の月刊誌「婦人之友」を創刊したほか、21年には自らの理想にかなう教育を行うため、私立学校「自由学園」を創設している。
3.女性解放
2025年12月28日
羽仁もと子(1873~1957)が提唱した「家庭生活の改善」がなぜ画期的だったのかは、明治期から昭和初期における日本社会の実情を振り返ると理解できる。 当時は、個人より家の集団秩序を優先する家制度を基礎としていた。1898(明治31)年に施行された明治民法では、戸主(家長)が家族の婚姻・縁組の同意権、居住地の決定権などを有し、夫や跡取り息子などの男性が戸主となるのが一般的だった。
4.教育
2025年12月29日
明治期以降の日本人は、旧来の身分秩序に基づく人生設計に代わり、学問を修めることによる立身出世の道が開かれた。一方、女子教育の門戸も徐々に開かれたものの、夫を助け、国に貢献する子どもを育てる「良妻賢母」が理想とされ、学校教育もその分野に限定された。男女別学が原則で進学先も限られ、特例で男性の高等教育に進んだ女性が、からかいの対象となるケースもあった。
5.新聞と雑誌
2025年12月30日
明治期から昭和初期にかけての新聞は、戦時報道で発行部数を拡大させてきた歴史がある。国の命運、徴兵された家族の命がかかった戦争の経過は、読者の関心が高かった。一方、軍部への批判報道に対する在郷軍人会(退役軍人組織)の不買運動が起きるなど、軍部・戦争批判は徐々にタブーとなった。
6.遺産
2025年12月31日
八戸市出身のジャーナリスト・羽仁もと子が創刊した雑誌「婦人之友」は、2003年に創刊100周年を迎えた。同年8月号では特集「歴史の光と影―『婦人之友』と戦争」を組み、もと子らの言動や当時の社会事情を取り上げ、戦禍を二度と繰り返さない姿勢を改めて示した。