Free【創刊75周年】(3)津軽進出の野望あった!?/新聞が売れた理由は…

1959(昭和34)年9月に完成した新社屋(八戸市番町)
1959(昭和34)年9月に完成した新社屋(八戸市番町)

八戸市に本社を置き、北奥羽地方を主な発行エリアとするデーリー東北。青森県内では県都の青森市に支社があるものの、それ以外の津軽地方に拠点はない。ところが、創刊間もない頃には弘前市、木造町(現つがる市)にも支局を設置していた。津軽進出の野望があったのか!?

 社史をひもとくと、支局は創刊翌年には設置。意外なことに津軽地方からの引き合いは強かったようで、1947(昭和22)年7月には、県南版と津軽版の2版制を整えている。それでも、津軽版に掲載しているのは北奥羽のニュースが中心で、津軽の人の関心が高いとは思えない。なぜ売れたのだろう。

 実はその謎を解く鍵は、当時も盛んだったリンゴ栽培。戦後しばらくは統制品だった紙は貴重品であり、リンゴ袋の原料として需要が強かったのだ。

 社史には「(情報源としての新聞よりも)津軽ではリンゴ袋、八戸では魚の包み紙として引っ張りだこだった」と、自嘲気味に記されている。

 51(昭和26)年に統制が解かれると、津軽の需要はほとんどなくなった。デーリー東北の部数は半減し、「本紙を必要とする購読者だけが残り、新たなスタートを切ることになった」(社史)。 再び津軽進出を図る日はあるだろうか―。