Free【創刊75周年】(2)北奥羽開発に復興を懸ける/創業者たちの思い

創業当初の本社社屋。戦中に発行されていた奥南新報社の社屋を改装した(八戸市番町)
創業当初の本社社屋。戦中に発行されていた奥南新報社の社屋を改装した(八戸市番町)

デーリー東北の創刊当時、郷土は長き戦争による荒廃と困窮の中にあった。復興を志す本社の創業者たちは、北上山地の北に位置する「岩手県北部」「秋田県鹿角地方」「青森県東部」を「北奥羽」と名付け、手を携えて発展を目指す運動を始めた。

 経緯は藩政時代にさかのぼる。元々、北奥羽地方は盛岡、八戸藩領として経済・文化的な結び付きが強い地域だった。にもかかわらず明治維新後は3県に分割。運動は、県境によって分断された地域の一体性を取り戻し、行政区画にとらわれない経済圏を建設しようとするものだった。

 1949(昭和24)年9月には本社の林俊夫総務局長(後に八戸市助役、93年没)を事務局長として「北奥羽経済建設協議会」が結成された。八戸、三戸郡、上北郡、二戸郡、九戸郡、鹿角郡の各市町村が参画。秋田県の鹿角を除けば、ほぼ現在の本紙発行エリアと重なる。

 終戦で中国から引き揚げてきた林が北奥羽開発に懸ける思いは強かった。65(昭和40)年の本紙で「同じ南部藩で血縁も深く、共通の運命下にある同士が自らの手で地域を開発しようと結束した」と語っている。

 開発運動は、(1)交通網の整備促進(2)金融機関の増強(3)観光開発(4)電源開発―が主要な方針。デーリー東北は運動の先頭に立ち、詳細な報道に加え、紙面を通じた世論喚起や提言などを行った。

 52(昭和27)年までに、(1)は現在の国道45号・102号の国道昇格、(2)は東北銀行の設立と八戸進出、(3)は「北奥羽新八景」の選定、(4)は送電線の拡充と火力発電の立地―などとして結実。特に(1)と(4)は、八戸が産業都市として成長する基盤となった。

 ところが、次第に国土総合開発法に基づき各県それぞれに開発運動を進めるようになると、同協議会の役割は急速に低下。54(昭和29)年に林が八戸市の産業課長に転じたのを機に、同協議会としての活動は終止符が打たれた。

 ただ、運動によって北奥羽という圏域は定着し、そこに込められた理念も脈々と受け継がれた。後には“岩手・八戸連合”として、八戸高専の誘致、新産業都市の指定を勝ち取る原動力となった。行政による協力の枠組みは現在も「北奥羽開発促進協議会」として受け継がれている。

 経済のみならず、文化や教育、医療面などで強いつながりを保つ北奥羽。今では、県境を越えて飛ぶドクターヘリの姿が、その象徴となっている。