Free【デーリー東北創刊75周年】(1)終戦直後の誕生秘話

創刊75周年を祝って発行した15日付のエコノミック・マンデー(電子紙面で無料でお読みいただけます)
創刊75周年を祝って発行した15日付のエコノミック・マンデー(電子紙面で無料でお読みいただけます)

デーリー東北新聞社はきょう12月15日、創刊75周年を迎えた。終戦直後の混沌と荒廃から、郷土に新たなジャーナリズムを確立しようと立ち上がった創業者たち。私たちはその思いを忘れることなく、地域とともに3四半世紀もの長い道を歩んできた。エコノミック・マンデー号外では創業の原点を振り返るとともに、地域を未来へとつなぐ決意と取り組みをお伝えする。

 デーリー東北が北奥羽地方で産声を上げたのは、太平洋戦争の終結からわずか4カ月後の1945(昭和20)年12月15日。言論と表現を縛り付け、新聞を1県1紙に限っていた戦時統制が終戦によって解かれると、八戸市を中心とする地域では独自の新聞を発行しようとの機運が高まっていた。藩政時代から独自の文化・経済圏を築いていたのに加え、統合前は市内だけで3紙が鼎立していたという土壌もあった。

 中心となったのは、田子町出身で当時38歳だった穂積義孝(1978年没)。戦前・戦中は読売新聞や中国上海の大陸新報で記者として活躍しており、長き戦争によって荒廃した郷土に「文化の根を築きたい」と、新聞創刊に意欲を燃やしていた。

 「終戦直後で世の中は非常に混乱していた。私は戦争から解放された『自由』がほしかった。これを実現できるのは新聞しかないと考えた」。後に公職追放と解除をへて専務として復帰した穂積は、創刊20周年の紙面で思いを語っている。

 同志を募った穂積はまず新聞用紙の確保に奔走。当時、用紙の配給は連合国軍総司令部(GHQ)が割り当てており、穂積は終戦翌月には早くもGHQに顔が利く知人を八戸に呼び、同市高館に進駐していた米軍のベル司令官に配給を要請してもらった。

 「デーリー東北」の名前はこの時に生まれた。日本語の「日刊」ではなく英語の「デーリー」、八戸を中心とする限定的なエリアなのに「東北」。創刊からしばらくは、クリーニング店や薬屋、化粧品店などに間違われたという。なぜ、このような不思議な名前にしたのだろうか。

 理由はいくつかあったようだ。用紙を配給してもらうために「半分は英字の新聞を発行する」と米軍に説明したこと。東北全体を発行エリアとする夢を描き「ちっぽけな名前ではなく」と考えたこと。ベル司令官が名付け親との説もある。ただ「英字新聞にはとても手が回らず、ベル司令官の了承を得て発行を見送った」(穂積)。

 創刊から75年がたった今も、英字新聞は一度も発行されていないし、東北を代表する新聞にもならなかった。ちょっと変わった題字だけが残された。そこには、荒廃した郷土を立て直そうとした創業者たちの夢と苦労が込められている。

 創刊当初は日刊ではなく、3日に1回の発行。12月15日付1面の「創刊の辞」には「身自ら高邁なる志操を掲げ、節度を保持し、権勢に媚びず、富貴に淫せず、あくまで新聞の担うべき究極の使命を達成せんとすることを誓い」(抜粋して現代調に手直し)と決意を述べている。

 戦後、全国各地に雨後の竹の子のように誕生した新興新聞の多くは倒れ、戦時統制によって1県1紙に統合された新聞が「県紙」として存在感を高めた。

 その中で、デーリー東北は戦後生まれの数少ない生き残りだ。地域と共に歩んできた75年間。発行に携わる私たちにとって、創刊の辞に込められた思いは今も変わらない。