Free時評(9月25日)

東京電力福島第1原発を巡って業務上過失致死傷の罪で強制起訴された旧経営陣3人に東京地裁が無罪を言い渡した。刑事裁判の司法判断として尊重したい。だが誰一人責任を問われないというのなら市民感覚との隔たりは否めない。
 大事故直後の混乱の中で命を落とした犠牲者遺族や古里を奪われた多くの避難者の無念は想像を絶する。判決は責任の所在を明確にしなかった。ならば私たちがそれを問い続けなければならない。
 判決は、最大15・7メートルという大津波試算の根拠となった地震長期評価について「具体的な根拠が示されておらず信頼性に乏しいと評価されていた」と認定。被告人3人に対し「原発の運転停止措置を講じるべき結果回避義務にふさわしい予見可能性があったとは認められない」と結論付けた。
 長期評価は国の地震調査研究推進本部が定める地震防災の基本のはずだ。主な海溝型や活断層型地震の発生確率を公表し、南海トラフ巨大地震や首都直下地震など、多くの地震に対する「備え」の根拠になっている。
 正確な地震予知は現在の科学技術の総力をもってしても難しい。それでも多くの地震学者らは最新の膨大なデータを駆使して懸命に発生確率を出す。「今後30年以内に○○パーセント」などと表現するのは、直近の確率など出せないからだ。地震大国のこの国は長期評価を頼りに減災に備えなければならない。
 原発はごくまれな自然の驚異をも十分に恐れ、そして備える、つまり予見可能性を極限まで追求するものではなかったか。必死に予見することが危険性の認識につながる。
 判決は「審査基準は絶対的安全性の確保を前提としてはなかった」とした。では問いたい。東電が事故前に原発は絶対安全としていた「安全神話」をどう説明するのか。
 裁判の過程で多くの新事実が明らかになった。津波高の試算をした現場担当者と報告を受けた経営陣らとの生々しいやりとりや経営判断の実態は衝撃的だった。権力を持った人間たちの貧弱な危機管理能力や、安全よりもコストを優先させる危険な意識構造も浮かび上がった。
 判決を受けて東電は記者会見しなかった。世界を震え上がらせた重大事故の処理や事故炉の廃炉という重い作業を延々と続ける組織としての責任や覚悟は直接聞けなかった。国への責任追及を恐れてか政府の動きも鈍かった。今回の裁判を通じて原発を巡る実相が見えた。