Free【北奥羽の地名】法師岡(南部町)/南部氏からの攻撃防ぐ

北奥羽の地名
北奥羽の地名

【法師岡=ほうしおか】 

 南部町福地地区に中世の城館跡として残る法師岡館跡。馬淵川の右岸に立地し、東西は沢に挟まれた丘陵地に構築された。川からの高さは約35メートルで、防御のために造られた三重の堀跡は異彩を放つ存在として知られる。

 創建期などの詳細は不明。福地村史などによると、八戸市に所在した櫛引城の城主・櫛引氏の一族で、小笠原氏の居城だった。天正年間(1573~92年)には小笠原平部が住んでいたとされるが、櫛引河内清長の弟清政がいたとも言われる。

 法師岡城は豊臣秀吉による天下統一の最終仕上げ「奥州仕置」を期に、南部氏宗家の覇権を争う九戸の乱(1591年)に巻き込まれる。九戸側の城として、南部氏から攻撃を受けるが強固な守りで撃退。だが、城主が九戸城で戦死したとの偽情報が流され、城兵は戦意を喪失し落城したと伝えられる。

 「法師岡」の地名の由来は不明。中世以前の「法師」という敬称は、自らが生活する建物を持たない僧侶の呼び名とされていた。周辺に仏教施設が無い理由もこのことから推察される。

 ※ネット連載

 
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